「なんだかなぁ…」
シェルとラルクが寝室に引き上げていくのを見送って、カイルはケイと一緒に、はぁ、と息を吐き出した。
「結局…シェルはラルクが本当に好きなんだね…」
あのふざけた『お見合い』の後。二人の会話は傍で聞いているにはあまりにもつらくて、二人は書斎に逃げていた。そして、そろそろ朝日が昇ろうかという頃になってようやく広間に下りてくると、ラルクがシェルを部屋まで送りに行くところだった。
「でも、あの二人、結局、キスなんかできそうにないぜ?」
「あ…そうだね…」
どうすんだよ、と投げやりな口調で言ったカイルに、ケイも困ったように首を傾げた。
「明日には…シェル、いなくなっちゃうもんね…」
「…はぁ」
二人はしばらくの間そうしてソファにもたれかかっていたが、やがてどちからともなく、それぞれの寝床へと帰っていった。
「…ラルク…」
そして、その日のまだ太陽が空に君臨している時間。シェルはそっとベッドを抜け出して、ラルクが記憶を失ってシェルと一緒の部屋で眠るのを拒んだため新たに用意された部屋の前に足を運んだ。取っ手を回すと、かちゃり、と小さな音がして、扉が開いた。
その部屋の中で、ラルクはすやすやと安らかに寝息を立てていた。普段のラルクなら、このような無用心なことは絶対にないだろう。寝込みに近づいただけで、気づかれてしまうに違いない。
しかし、このラルクは決してそんなことはなかった。シェルがその傍らに寄っても、全く気づくことなく眠り続けている。
「今日の夜には…わたしはもう帰らなきゃいけないから…」
呟いたのはシェル。
「…ごめんなさい…」
その謝罪は誰へのものか。
そっと睫毛を伏せて手を伸ばし、深く眠り込んだままのラルクの頬に優しく触れた。
「ラルク…どんなあなただって…愛しているわ…」
そして、静かに、その唇をラルクのそれへと重ねた。
「…随分のんびりとしているんだな、カイル」
広間にやって来るなり浴びせかけられたその言葉に、カイルは条件反射に近い何かで、
「何だと、兄貴…!」
と切り返した。それからはた、と気づく。
「…って、え!?」
「何だ、鳩が豆鉄砲くらったような顔をして。そんなにここに私がいるのが不思議か?」
何を言おうにも声にならなくて、馬鹿みたいに口をぱくぱくさせるカイルの横から、ケイが飛び出した。
「ラルク! 元に戻ったんだね!」
「ああ、まぁ、な」
シェルを見遣って僅かに苦笑しながらラルクが答える。
「心配をかけたようだな、お嬢さん」
「べっ…別にあんたの心配なんてしないよっ!」
ケイは意地を張ってそう言い切ると、さっと踵を返していってしまった。シェルがそれを見て、
「あんまりケイちゃんをからかっちゃだめよ?」
と優しくラルクをたしなめる。
「ああ、すまないね」
「ふふ、ケイちゃんは反応が素直で可愛いから、ラルクの気持ちも分かるけれど…はい、コーヒー」
「ああ、ありがとう、シェル。君の淹れてくれるコーヒーが、いつだって一番なんだ」
「まぁ、ラルクったら」
カイルは、砂を吐きたくなるほどに甘い会話を夕方から、しかも他人の家で交わしている二人に引きつつも、とりあえずは事の次第を確認しなければ、と問いかけた。
「じゃあ…二人は…その…?」
それを聞いて、ラルクがカイルを睨みつけた。
「…恋人達の間で起きたことを尋ねるなんて無粋な真似をするような弟に育てた憶えはないが」
声に温度があるなら、きっとこれは絶対零度に違いない、という声音でラルクが言う。カイルはひっと口の中で小さく悲鳴を上げてすごすごとその場を退散した。が、しかし、その顔は意外にも笑っていた。何より、あの兄が戻ってきたのだ。カイルは嬉しくて飛び跳ねたい気持ちを抑えて、両手をぐっと上に突き出した。
「じゃあ…もう、さよならだね、シェル」
深夜に近い頃になって、カイルの館にリドルとヴァージニティが再び顔を出した。シェルを迎えに。
寂しげに呟くケイにシェルは優しく言った。
「そんな悲しい顔しないで?」
「でも…」
少し離れて、そんな二人のやり取りを見守っていたカイルは、気づかれないように気をつけながら、そっとラルクを見た。兄の顔は、いつもの冷酷な氷の彫像のようだった。少なくとも、そこからは彼の心情は窺い知れない。カイルは静かに目を伏せた。
そうしてリドルとヴァージニティと連れ立って、シェルを彼女達の館へと送るために、ラルクもカイルの屋敷から去っていった。二階の窓から、ずっと見送ってくれているカイルとケイを振り返り手を振って、シェルが囁く。
「ね、ラルク?」
「何かな?」
「楽しかったわ…とっても。ありがとう」
「それはよかった」
ラルクは言った。シェルが『優しい』といったあの微笑みを浮かべて。それから面白そうに問いかけた。
「シェル、別れ際にケイに渡していたのは、もしかして、あの小壜かい?」
「気がついていたの?」
その愛らしい大きな目をさらに大きくして、シェルがラルクを見上げた。彼はくすくすとおかしそうに笑う。
「私に隠し事なんて、まだ早いようだよ、お嬢さん」
「…まぁ」
その揶揄を含んだ声に、頬を膨らせて拗ねた振りをしてから、シェルもくすっと笑って言った。
「ええ。今回は、わたしが面白がっていたせいで、ケイちゃんに迷惑かけちゃったから」
「…でも、もしもカイルが記憶を失ったとして、今度のことのように、都合よくケイを好きになるかな」
「あら。記憶を失くしたって、カイルさんはカイルさんだわ。きっとケイちゃんを好きになる」
「私のように?」
「ええ」
シェルは根拠のない確信をもって、力強く頷いた。ラルクは今もまだ白い氷の結晶を落とし続けている雪雲を見上げて呟いた。
「…そうだな」
しばらくは、また、一人で生きる寂しさを強く感じるかもしれない。シェルとは、もう逢えないのだから…
(そうしたら、また、カイルのところへ遊びにいくかな)
あの二人がしあわせそうにしているのを見ると、悲しみに押しつぶされそうな心が癒される気がしないでもない。それに。
(記憶を失くしたカイルがどうやってケイを口説くのか、ケイがどうやってカイルをじらすのかには、ひどく興味があるからな)
ゆっくりと歩く四つの影。雪は彼らの上に、ただ静かに、ひらひらと舞い降りていった。
―fin―