「ん…」
僅かに光を感じて、シェルは目を覚ました。一瞬、自分のいるそこがどこなのか分からなくてひどく不安に思う。けれど、ぼんやりしていた意識がはっきりしていくにつれて、少しずつ、ここに至る経緯を思い出した。
(ああ…そうだわ…)
こんなふうに、眩しさに思わず瞼を閉じて、そして、そのことに―――瞼を閉じることが出来る、ということに気がついて驚いたのだ。一昨日の午後、ヴァージニティの屋敷で。そこにはリドルもいて、彼女は生前のときとなんら変わらぬ姿で二人の前に立っていた。そしてリドルが特別に計らってくれたのだということをヴァージニティに聞いて、二人にチョコレートケーキの作り方を習ったのだった。
(そのケーキはカイルさんにもケイちゃんにも好評で…もちろんラルクも…)
そこまで考えて、シェルははっとした。先程、閉じた瞼の向こうに見たものは何だった?
ラルクは闇に生きる呪われし魔物。浄化の力を抱く太陽光は、彼の身体を塵と変えてしまう。
「…え…?」
慌てて彼の無事を確認しようとしたシェルは、そこで初めて、部屋の中に彼の姿がないことに気がついた。昨夜ケーキを食した後、二人してカイルが用意してくれたこの寝室へやって来て、もう1度出逢えたことを喜びながら、彼の腕に抱かれて一緒に眠ったはずなのに。
彼女は身体を起こすと、薄いレースのネグリジェの上にガウンを羽織った。窓へと近づき、まるで彼女こそが陽射しを恐れる魔性の生き物であるかのようにゆっくりとカーテンを引いた。
「ゆき…?」
その向こうは一面の銀世界だった。どんよりと曇った空からは相変わらず、白い華がはらはらと舞い降りてきている。明るく思えたのは、その雪明りのせいだった。そこには日差しなど射していないというのに、何故か、積もった白雪は僅かな光を吸い込んでは乱反射させ、きらきらと輝いている。
感じた明かりが太陽のものではないことにシェルはほっと溜め息をついて、ふと時間を確かめた。部屋に備えつけてあった時計によると、もうそろそろ日没の頃。
「ラルク…まだ夜が来るまでには間があるのにどこへ…?」
(…わたしを置いて?)
その言葉を心の中でつけ足すと、彼女は身を翻して扉へと向かった。彼が自分を置いていってしまうなんてあり得ないと分かっている。それでも、虫の知らせ、とでもいうのだろうか。何か予感めいたものが、彼女を包み込んで放さなかった。
(カイルさんはまだ…でも、ケイちゃんならもしかして…?)
シェルは取っ手に手を伸ばし、勢いをつけて開けた。そのとき。
ごん!
やたらと景気のいい、何かがぶつかる音が廊下に響いた。それに続いて、どさっと人が倒れる音。
「…まぁ」
咄嗟のことに、何か状況を履き違えたようなのんびりとした声で、シェルは言った。
そこにいたのは、まるで美の女神でさえもその存在に嫉妬してしまいそうなほどに美しい金髪の男性―――言うまでもなく、シェルの探していた彼、ラルクだった。
「なっにーぃ!? 兄貴が記憶喪失だってー!?」
いつになく慌てたケイに起こされて広間へと降りていったカイルは、シェルのほんわかとした微笑みと口調で告げられたその内容のあまりの突拍子のなさに、思わず大声を上げた。しかし、目の前でにこにこと笑う少女の隣にいる、おろおろとしてまったく落ち着きのない男は、間違えようもなく彼の兄その人だった。
「…すみません、あなたのことを憶えていなくて。血を分けた実の弟さんだというのに…」
カイルの視線が随分と長くそこに留まっていたせいか、彼はひどく申し訳なさそうに頭を下げた。その途端、カイルは身体中を掻き毟りたくなるような寒気を覚えた。元の彼との激しいギャップに叫びたいのを何とか堪え、心の中で毒づく。
(いったい何だってこんな!?)
カイルはとりあえず、眼前の現実から逃避しようと辺りを見回した。しかし周囲に人影はない。ケイはというと、ラルクのその豹変振りに心の底から恐怖を覚えたらしく、先程から猫の姿のまま、全身の毛を逆立てて低く唸り声を上げながら、カイルの足元で震えている。それを見たカイルはとうとう諦めたらしい。状況を整理することに努め始めた。
話を聞いた限りでは、シェルは彼の頭に非常に思いっきり扉の直撃をお見舞いしてしまったらしいが、どうやら、ラルクがおかしな行動を取ったのはその前からのようだ。カイルは嫌々ながらも、どこか所在無さげに瞳を曇らせている兄を見遣った。
「…どうして記憶を失くしたのか…なんて、憶えてないよなぁ?」
ふとカイルの口をそんな言葉がついて出た。しかし、それがいけなかった。突然、いつも自信に満ち溢れていた輝く黄金の二つの瞳に、じわり、と涙が滲む。
「そうですよね…ご迷惑ですよね…何も憶えていないなんて…」
その声も、普段のはっきりとした強い意志が読み取れるものではなく、掠れ上擦ったもの。カイルは大いに取り乱し、とにかく、その兄の顔で泣かれでもしたら堪らない、と何とか彼の気を逸らそうと話題を変えることにした。
「あ…別にそういう意味で言ったんじゃ…いや、そう意味で言ったといえばそうなんだけど…じゃなくて! …っと…そうだ! それじゃ兄貴は、眠ってて目が覚めたらそんなになってたってことなんだよな? じゃあ、何で部屋の外に出たんだ?」
その質問に、シェルも不思議そうにラルクを見た。その視線を感じたらしいラルクが、真っ赤になって俯きながら、ごにょごにょと呟いた。
「…だって…見ず知らずの女性と一緒の部屋で眠るなんて…」
「見ず知らずっていったって、あんたの恋人だろーが!」
遂に耐え切れなくなって、カイルは泣き叫ぶように吐き出した。派手に音を立ててその場に立ち上がったかと思うと、すぐさま頭を抱えてうずくまる。ケイが驚いて逃げ出していくのにも構わずに、彼は心から祈った。
(あーもう、誰か助けてくれ! こうなったら神様でもいいっ!)
苦悩するカイルと、彼のその反応にどうしていいか分からずにおろおろするラルクを交互に眺めて、シェルは困ったように小首を傾げた。けれどその顔には、まったくいつもと変わらない柔和な微笑みが浮かんでいた。