3.

くかはぁぁっと大きなあくびをして起き上がったケイは、真っ白な体を弓なりに反らせ、ぴぴぴっと交互に後足を振りながらベッドから飛び降りた。
〝うー、まぁだ体が硬いわー…〟
ぶつくさと口を尖らせつつ顔を洗い始める。
〝ったく、変なもの見せないでほしいわよねー。心臓に悪いったら!〟
まだ後遺症で硬くなっているような気がする毛並みを丁寧に丁寧に舌で梳ったケイは、ようやく満足したのか、すいと立ち上がりそのまま人型に変化した。なんとなしに窓の外を見やり、まだ昼間かとぼんやり考える。
〝昨日あのまま寝ちゃったから早起きしちゃった。カイル、どーしたかなぁ…〟
あの、裏も含みもこれっぽっちもない「満面の笑顔」ショックで思わず石化してしまったケイを部屋に戻してくれてから、カイルがどんな暴走をかましたか知るよしもないが、ケイの心配は結構的を射ていたりする。カイルの事を思いやっているうちにあの後の事が気になり始めたケイは、彼が起きてくるはずのない時間と判っていながらも、自室を出て居間に向かった。と、階段上で、下から昇ってきたラルクと鉢合わせする。
〝げっ! なんで!?〟
夕刻近いとはいえ、吸血鬼が日中に活動してるなんて!
しかしラルクの方はというと、見知った顔にホッとした表情を見せ、そして。
「あ、ケイさん。良かっ…なんて格好してるんですかっ!?」
顔を朱に染め、慌てて目を逸らす。その上、片手で顔半分を隠す(!?)、という行動に、ケイの方が面食らった。
「……へ?」
彼女の名誉のために言っておくと、別にケイが寝ぼけて服を着忘れているわけではない。…ある意味そうかもしれないが、とにかくケイはいつも通りのレオタード姿のような格好をしてるわけで、彼女にしてみれば別段変なところはない。
「ちょっ…、変な言いがかりつけないでよぉ!」
「いーからとにかく何か着て下さいッ。淑女のする格好じゃありません!」
思わず詰め寄ろうとしたケイから慌てて離れたラルクは、片手では顔を押さえたまま、空いている方の手を牽制するかのように振り回す。
「…しゅ、淑女ぉ…?」
牽制されるまでもなく、ケイの体からどっとばかりに力が抜けた。これまで、揶揄やからかいの意味でラルクから聞いた事のある単語ではあったが、よもやこんな風に言われるとわ。
がくーんと首を折ったケイは、言葉もなくのろのろときびすを返すと、その「淑女」らしい服を着るべく部屋へと戻っていった。
それからちょっとして――。
「これで文句ないでしょ!」
ケイは、着替えの間に気を取り直したか、部屋から出るや、階段上でおとなしく待っていたラルクに開口一番かみついた。が、対するラルクは明らかにホッとしたように頷く。
「それで? 何か?」
「何…って?」
「あーもー! さっき何か言いかけたでしょっ。それ、何!?」
「あ、あれですか。実は…」
「ちょっと待って。あんた、なんでコート着てるわけ?」
尋ねておきながらその答えを聞きもせずに次の問いを――それも嫌そーに――発したケイに気を悪くするでなく、ラルクは、むしろきまり悪そうに苦笑した。
「実は、お暇しようかと思いまして」
「はぁっ!?」
「どうも私がここにいると、カイルさんにご迷惑なようですし、それなら早々にと思ったのですが…。昨夜なかなか寝つけなかったせいか、お恥ずかしい、すっかり寝坊してしまったようでこんな時間に。ところでカイルさんはどちらか教えてもらえませんか?」
「は…え…ええ!? あんた正気!?」
迷惑どころか大迷惑である事は間違いないけど大体吸血鬼がこの時間で寝坊って何よ早起きもいいところじゃないあーでもこんな時間に出てったら最後どーなるかそりゃ出てってくれるのは大歓迎だけどそんな事させたらあとでカイルがもしかしたらやっぱり泣くかもだしカイルが泣くのはヤだしえーっとえーっと…!
ケイの頭の中を、まるでつながらない思考が高速で回転する。知らず引きつったまま固まってしまったそんな彼女をどう取ったのか、ラルクは彼女を気遣うような微笑みを浮かべ、告げた。
「あ、カイルさんが私に会いたくないという事でしたら、どうかよろしくお伝え下さい。それでは」
「ちょ、ちょ、ちょっと待つにゃーッ!」
「うわ、ちょっと! ケイさん何を!? わーっ!」
本来ならばそれを目にした女性すべての胸を「きゅーん」と高鳴らせたであろう憂いを含んだ微笑みはしかしケイには通じず、ラルクは何故か――彼にとっては、だが――爪を剥きだして飛びかかってくる彼女から必死で逃げ出した。

「――で?」
起き抜けなのに既に疲れきった声音のカイルが、何故か揃って小さくなっているラルクとケイをこれまた脱力感のみなぎる視線で見やった。
「こーなった、と…」
と、台風一過のごとき館内を思いやってため息をついた。
〝夢じゃなかったのかー…〟
内心一人滂沱する。二人の必死の追いかけっこのために、目に付く館内の調度がすべてと言っても過言ではない程にズタボロになっているのはまだいーとして。
〝こっちの方が悪夢だー…!〟
責任を感じて小さくなっているラルクなんざ見る羽目になるなんてー。そりゃこれまで散々振り回されて一回くらいはそーゆー表情(かお)してみせやがれと思った事はあるけれど…いや、一度や二度や三度…やめよう、余計情けなくなりそーだ。
「ま、済んだ事はしょーがない」
この言葉を聞いた二人がホッと安堵の吐息をつくが、本当のところはなんのこたーない、追求したり叱責したりの気力がカイルにこれっぽっちも沸かなかっただけの事である。むしろ、修復の方がよっぽど楽だ。カイルは、反省しきりのケイに茶を頼むと、左手に包帯を巻いているラルクを伴って居間へ向かった。昨夜の惨状が嘘のように美しくしつらわれた調度品の数々に目を丸くする兄をよそにどさっと椅子に腰を下ろし、カイルは初めてどーしよーかと悩み始めた。一体何がどーなってラルクがこんなになってしまったのか、どーしたら戻せるのか。一瞬このままの方が俺の生活は平和かもと魔がさすが、前の兄とのあまりのギャップに気が狂いそーだ、と思い直す。いつかは慣れるのかもしれないが、慣れるまでにどれだけの胃袋と神経の束がいると思う? だったら、たとえこの先どんなに振り回される事になったとしても、さっさと原因を解明して復活してもらってとっとと出てってもらった方がずっといい。
“あーッ、もう!!〟
がしがしッと頭を掻きむしったカイルがそう決意を固めた丁度その時、ケイがおずおずと茶を運んできた。まだカイルを上目遣いで見るところを見ると、罪悪感を拭いきれてないらしい。今度はラルクの「感謝の笑顔」をかろうじて見ないフリをするのもかわいくて、思わずカイルは頬を緩めた。
「もういいよ。おいで」
「にゃん♪」
喜色満面、トレイをテーブルに置いたケイが、ぽんっと猫姿に戻ってカイルの膝に飛び乗る…。
どんがらがっしゃーん!
派手な音がした。
〝う゛…〟
同時にいや~な予感に襲われた二人が、ものすごく嫌そうにテーブルの向こうを見やると、案の定、見たくもないラルクの姿がそこにあった。受け取ったばかりの紅茶をソーサーごと放り出し椅子もろともひっくり返って床に尻餅をついた、ありうべからざる兄の姿が。
「うあ…」
「カっ、カっ、カイルさん、い、今、ケイさんが猫に…っ!!」
頭を抱える弟をよそに、麗しの顔(かんばせ)を蒼白にしたラルクがそう訴えたが、当然その主張の正しさを認めてくれる存在はここにはいない。
「あのなーっ! ケイはキャットウーマンなんだから当然だろーが! …まさか、自分が吸血鬼だって事まで忘れてるんじゃないよな?」
「私が…!?」
兄の端正な顔が驚愕に歪んだ。そして、弟が哀願する前に一気に言い放つ。
「私が吸血鬼!? そんな…! 私が夜な夜な町を徘徊して人々を襲うよーな、神に呪われた血に飢えた化け物だと、全女性の敵だとゆーんですかぁっ!?」
「……おにーさん、ほんとーーーにお願いですからカンベンして下さい…」
がっくりと椅子から滑り落ち首を垂れたカイルは、滂沱の涙をこぼしながら、消沈しきった声音で、哀願した。

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