2.

目の前の安楽椅子に座した人物を憂鬱そーに見やって、カイルは今夜286回目のため息をついた。
“…どーゆー冗談なんだ?〟
無論、冗談で済む話でない事は、あれからとりあえず放っとくわけにもいかないと――そのままふらふらとどこかに行かれでもしたら目もあてられやしない――、館に連れ戻って脱力感に苛まれながら交わした会話の数々から嫌とゆー程思い知ってしまったものの、なおそう考えずにいられない。この、いつも自信と余裕に満ちあふれ、生まれながらにどーしよ-もなく偉そうで実際誰にも逆う事を許さない、「傲岸不遜」が服着て歩き回っているよーなあの(!)兄が、「記憶喪失」なんて乙女チックなものにおとなしくなるなんて事があろうはずがないではないか。カイルの立場としては、絶対何か裏があると勘ぐりたくもなろーってものだ。どっかで頭でも打ったのかもしれないが、ンなもの、とっくに完治してしまって証拠にもならないに決まってる。こっちを引っかけよーとしているのだという疑い(あるいは希望)を捨てたくはない。捨てたくはないのだが…。
カイルは、ちらと兄を横目で見やってまた、ため息をついた。茶を運んできたケイに満面の笑みで礼を言う兄が――たとえ何か裏があったとしても――いようはずがないではないか。かわいそーに、完璧な「感謝の笑顔」を一身に受け取ってしまったケイがまた、全身の毛を逆立てたまま石像化している。カイルは、通算288回目の吐息をもらして立ち上がると、油の切れた機械人形のごときケイをなだめすかして自室に戻し、ようやくこれ以上ないほど気の進まない話し合いを再開する事にした。
「ほんっとーっに! …何も憶えてないわけ?」
弟の目から見てもため息が出る程の全き眉目を刻む顔が、カップを口元へ運ぶ手を止めて、申し訳なさげにこっくりと上下する。その居住まいにしても、まさにきちんと「借りてきた猫」のごとく膝を揃えてちょんまりと座ってるよーな有様で、いつもの他人ん家を他人ん家とも思わないふんぞり返り方とは雲泥の差である。
〝と、言ってもなぁ…〟
カイルは、やっと手をのばしたカップで口元を隠しながらちらりと上目遣いに、茶を飲むラルクを見やった。
〝またぞろ偽者ってわけでもなさげだし…〟
いつぞやの一件から考えて、ラルクが自分の偽者、なんてものの存在を許すはずがないのもよーっく知っている。あの時は、よくまあ自分と同じ顔したモノを――なんぼ傀儡(くぐつ)と判っていたって――あそこまで躊躇なく抹殺できるものだと内心ぞっとしたものだが…。
知らず回想に逃避しそーになる自分に気がついて、カイルは無理矢理意識を現実に戻した。そして、地雷を踏む覚悟ですううっと大きく息を吸い込み、最終確認の言葉を言い放つ。
「んじゃ言うけど、あんたは俺の一応異母兄で名前はラルクで性格はすっげー自信家で冷淡で人を見下しまくっているよーな奴で、実際実力もムカつくぐらいあるから始末に終えないしずけずけ嫌な事ばーっか言うし他人ん家を他人ん家とこれっぽっちも思ってないし俺はいつもすっげーメーワク被ってるし!」
ぜえぜえ。
一気呵成に言い切ったカイルは、そろそろと薄目を開けて正面に座るラルクを見やった。そして思い切り言い切られてしまった彼が声もなくうつむいていると見るや、瞬間移動かと見紛う速さでそれまで自分が座っていた椅子の後ろに隠れる。それから、ばっくんばっくん跳ね回る心臓を思わず押さえつつ、そろそろと背もたれの後ろからラルクの様子を窺った。その、緊迫した視線の先で、カチャリ、とカップが静かにソーサーに戻され、その音にカイルが思わず跳ね上がる。
〝く、来るか? 来るか!?〟
が、じわじわと兄の体からにじみでてきたものは、お馴染みの静かで威圧的な鬼気ではなく、悄然たる陰の気――早い話が落ち込みオーラ――であった。
「――…そんなに…」
はああ、と聞いたこっちがへこんでしまいそうなため息をついたラルクの伏せた目が「うるっ」と光ったように見えたのは、あ゛あ゛っ、誰か間違いだったと言ってくれ!!
しかしラルクは、カイルのそんな心の叫びも知らず(まあ当然だが)、傷ついた笑顔を弟に向けた。
「私はあなたにとって、そんなにひどい兄だったんですか。…ずいぶんご迷惑をおかけしたみたいですね」
も一度にっこり、と自嘲気味に微笑む。
「では私がこうなったのは、天罰なのかもしれませんね」
ばボきゃッ!!
よく判らない破壊音とともに、カイルが取りすがって隠れていた椅子が真っ二つにへし割れた。
「カ…、カイルさん…!?」
「うわああああッ、もーダメだあああ!! もお俺には耐えられなああいっ!!」
嫌悪と恐怖に号泣しながら、カイルは手にした椅子の残骸を手始めに当たるを幸いそこら中の物を投げ飛ばし叩き壊し蹴り破った。通常物が壊れる端から音もなく出没して楚々と片付けていくメイド達も、主の激昂を恐れてか、一人も現れない。ラルクはラルクで、凄まじい勢いで破壊粉砕されていく調度の数々とその破壊者を呆然と見つめているしかなかった。その内に、足元に勢い良く突き刺さった木切れにびくぅっと飛び上がり、怯えた目して壁に張り付きつつ何とかカイルをなだめようと声をかける。
「カ、カイルさん、落ち、落ち着いて下さ…!」
「俺を『さん』付けで呼ぶんじゃねぇぇぇッ! うあああっ! どこのどいつだ、こんな怖ぇぇ兄貴ここに寄越しやがったのわぁぁっ!!」
「こ、怖いって、そんな…」
「すっげー怖ぇぇよぉぉ! 責任者出て来ーい!!」
「ひいい…」
かくして、壁際で難を逃れるラルクをよそに、ひとまず目ぼしい調度が原型も留めない程に粉砕されきってしまうまで続いた破壊音は、カイルの乱れまくった呼吸音に変わるまで延々と続いたのであった。

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